河内菌
(黄麹·白麹·黒麹)
焼酎の黄・黒・白って
なんのこと?
焼酎のラベルで見かける、“黒○○” “白○○”という銘柄。
この色の違いはその焼酎に使っている「種麹」を表していることをご存じでしたか?
種麹の種類は、黄・黒・白。この種類によって銘柄がつけられているんです。
また、焼酎造りは「一麹(イチコウジ)」「二元(ニモト)」「三造り(サンツクリ)」とも言われます。このことから麹は、焼酎造りにとって非常に重要な役目を担っていることがわかります。
麹づくりは、焼酎造りの第一歩。米に菌をまとわせた種麹から麹をつくります。
約100年前、初代 河内源一郎が焼酎に適した麹菌を発見してから、日本の焼酎造りは格段に変わりました。
焼酎造りにおける麹の役目
【1】でんぷんを糖に変える
蒸した米や麦に、種麹をまぶして麹菌を増やす製麴の段階で、麹は糖化酵素をつくります。この酵素が、米や麦、芋のでんぷんをブドウ糖に分解するのです。これが酵母の栄養となり、アルコールを作ります。
【2】クエン酸を分泌する
麹から分泌されたクエン酸が雑菌の繁殖を防ぎ、気温の高い九州でももろみが腐らず、安全に発酵することができます。
奥が深い!
黄麹・白麹・黒麹の違い
「黄麹きこうじ」
そもそも日本酒用は
黄麹しかなかった!
約500年前〜約100年前まで、メインを張っていたのは、日本酒に使われる黄麹だった。というのも、当時はそれしかなかったのだ。
クエン酸をつくらないという難点があり、黒麹、白麹の登場でマイナーな存在に。
温度と衛生の管理をすれば淡麗で爽快な焼酎になり、日本酒の吟醸香のような香り。
近年、黄麹を取り入れる蔵が現れている。
「黒麹くろこうじ」
河内源一郎による発見で
焼酎造りに光が差した!
起源は、泡盛に使われる麹菌。
鹿児島税務署監督局で焼酎の製造指導をしていた初代 河内源一郎が、鹿児島よりも暑い沖縄で造られている泡盛にヒントを求めて黒麹の分離に成功。クエン酸を分泌するため、安全な焼酎造りの幕開けとなる。
芳醇な香りと、どっしりとしたコクと旨味が特徴で、全国的に知られる“黒霧島”や“黒伊佐錦“などに用いられる。
「白麹しろこうじ」
軽やかな口当たりで、
昭和の全盛期を担う!
黒麹菌の突然変異から誕生した麹菌。初代 河内源一郎が、もっと万人受けする焼酎は造れないものかと研究を続け、黒麹の胞子の中にポツンと色の異なる胞子を発見。分離して純粋培養に成功したのだった。
黒麹同様、クエン酸をつくり、軽快でマイルド、キレがよく爽やかな焼酎になる。
実際は褐色だが、黒麹より色白なことから「白麹」と呼ばれる。
麹と焼酎のヒストリー
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明治43年
黒麹菌の分離に成功初代 河内源一郎が泡盛の麹菌から胞子を取り、焼酎に適した菌を栽培することに成功。
これを「泡盛黒麹菌」(アスペルギルス・アワモリ・ヴァル・カワチ)と言う。
黒麹菌開発後、研究は進み、大正初期には黒麹による焼酎の製造法を提案。
暑い時期でも腐敗せず、たちまち南九州の焼酎工場で採用に。
飛躍的に飲みやすくなり、“ハイカラ焼酎”としてもてはやされた。 -
大正13年
白麹菌を発見初代 河内源一郎が黒麹菌よりも糖化能力に優れた白麹菌の培養に成功した。
製造が簡単な上、焼酎の品質も格段に優れていた。
しかし焼酎造りの盛んな南薩摩では、黒麹の焼酎がすでに広く行き渡っていた。さらに、当時の種麹屋の製造は黒麹が主流であり、混乱を避けるため、当時日本の領土だった朝鮮半島で販売された。
こうして、白麹から作られた焼酎は広まっていったのだった。 -
昭和6年
『河内源一郎商店』創業初代 河内源一郎は、税務署監査局を退官。
鹿児島清水町に工場をかまえ、自らが開発した焼酎製造用種麹の製造と販売を始めた。 -
昭和40年半ば
南九州で白麹の焼酎が
ほぼ100%を占める -
昭和40年代後半
第一次焼酎ブームが起こる戦後、焼酎の配給制が終了。やがて味わいを求める時代となり、満を持して白麹が国内販売される。
当時の黒麹にはない軽やかさが評判となり、南九州では白麹の焼酎が人気急上昇!
第一次焼酎ブームにつながっていく。 -
昭和50年代後半
甲類焼酎で
第二次焼酎ブーム到来 -
平成12年頃
第三次焼酎ブームで黒麹の焼酎が全国区に味の差がそれほどなかった白麹全盛期。
ひたすら飲みやすい甲類焼酎ブームを経て、個性的な焼酎を求める時代に突入。
洗練された新タイプの黒麹菌が登場し、第三次焼酎ブームが巻き起こる。
黒麹の焼酎が脚光をあびる。 -
平成22年頃
レアな黄麹造りに注目冷蔵設備などなく、温度管理ができなかった頃は敬遠されていた黄麹。
衛生的に環境が整う現代では、これまでにない酒質を追求する蔵元が、黄麹の焼酎造りに果敢にチャレンジ。
小さな波ながら、黄麹ルネサンスが起こる。